F1CD-018A
キャメル・ロータス・ジャッド101 (CAMEL LOTUS JUDD 101) 1989年
実車について
CAMEL LOTUS JUDD 101 1989年
1988年、強力なホンダ・ターボ・エンジンを搭載し、ワールドチャンピオン ネルソン・ピケを擁したにもかかわらず、同じエンジンを積むマクラーレン・ホンダの後塵を拝してしまったチーム・ロータス。
結局1勝も揚げる事もなく1988年シーズンを終えたのでした。
明けて迎えた1989年。FIAは強力で高価なターボエンジンを禁止し、この年からF1に使用可能なエンジンは自然吸気(NA)3.5リッターエンジンのみとなります。
エンジン開発体制の問題もあり、ホンダのNAエンジンの供給数は1チームに絞られ、結局、前年の不振からチーム・ロータスはホンダ・エンジンを失います。さらにチーフ・デザイナーだったジェラール・ドゥカルージュもチームを去り、新たにデザインを手懸けたのはウィリアムズから移籍したフランク・ダーニーでした。
問題となるエンジンは、ホンダF2エンジンを基にジョン・ジャッドが開発したV8 3.5リッターエンジンを搭載。シーズン中盤には5バルブエンジンの開発も視野に入れ、新規巻き直しとなる筈でした。
CAMELが引き続きスポンサーを行い、ドライバーは前年に引き続き、ネルソン・ピケと中嶋悟の体制で臨みます。
しかし、ワークス体制のホンダと異なり、エンジンチューナーであるジャッド・エンジンの開発は進まず、チームは低迷します。元ワールド・チャンピオンのネルソン・ピケですら入賞わずかに5回。最高位は4位が精一杯でした。1ドライバーのピケがその有様ですから、2扱いの中嶋のマシンにまで手がまわりません。フランスGPではカウルが壊れたままレースを続けさせられた事さえありました。
しかし、シーズン最終戦、すさまじい豪雨の中行われたオーストラリアGPで中嶋は奇跡の走りを披露します。23位でスタートした中嶋は、逆転チャンピオンを狙うアイルトン・セナをはじめリタイアするマシンを尻目に、次々に他のマシンをパスし4位入賞を果たします。残念ながらエンジンがミスファイアを起し3位のパトレーゼには及びませんでしたが、ファステスト・ラップをたたき出し、その実力を認めさせたのです。
デザイナー フランク・ダーニー
ドライバー ネルソン・ピケ、中嶋悟
戦績 (1989年)
1989年 | 11 ネルソン・ピケ | 12 中嶋 悟 | ||
予選 | 決勝 | 予選 | 決勝 | |
ブラジルGP | 9位 | リタイア | 21位 | 8位 |
サンマリノGP | 8位 | リタイア | 24位 | 周回不足 |
モナコGP | 19位 | リタイア | 29位 | 予選落ち |
メキシコGP | 26位 | 11位 | 15位 | リタイア |
USAGP | 22位 | リタイア | 23位 | リタイア |
カナダGP | 19位 | 4位 | 27位 | 予選落ち |
フランスGP | 20位 | 8位 | 19位 | リタイア |
イギリスGP | 10位 | 4位 | 16位 | 8位 |
西ドイツGP | 8位 | 5位 | 18位 | リタイア |
ハンガリーGP | 17位 | 6位 | 20位 | リタイア |
ベルギーGP | 28位 | 予選落ち | 27位 | 予選落ち |
イタリアGP | 11位 | リタイア | 19位 | 10位 |
ポルトガルGP | 20位 | リタイア | 25位 | 7位 |
スペインGP | 7位 | 8位 | 18位 | リタイア |
日本GP | 11位 | 4位 | 12位 | リタイア |
オーストラリアGP | 18位 | リタイア | 23位 | 4位 |